Here lies one who was twenty years a virgin,
Seven years a whore and eight years a pimp.

 
二十年は処女、七年は娼婦、
  八年は女衒たりしもの、ここに眠る。


 1764年4月15日享年42歳で他界したポンパドゥール夫人に向けたパリの街で流行った戯れ歌である。
 
ポンパドゥール夫人(1721~1764年)【Wikipedia

参)ロココカナールURL】※すごく詳しい。。。
『ポンパドゥール候爵夫人の肖像画』(1756)【URL

フランソワ・ブーシェ(François Boucher 1703-1770)
 
 18世紀フランスに多大な功績を残したポンパドゥール夫人。政治に関心の薄いルイ15世に代わり事実上のフランス宰相として手腕を発揮した。七年戦争での「3枚のペチコート作戦」(敗戦)、陸軍士官学校の設立、セーヴル磁器の発展、百科全書の出版と数々の功績と同時に、湯水のようにお金を使い、戦争と敗戦でフランス経済を圧迫させた。従って、市民の彼女に対する評価は「処女と娼婦と女衒」であった。。。
 その部分のみ、年表にすてみた。
 
1721/12/29 ジャンヌ・アントワネット・ポワソンとして誕生
1741/03/09 シャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオールと結婚
1741頃     「セナールの森の妖精」噂されるようになり、ルイ15世と出会う
1741/12    長男、シャルル=ギヨーム・ルイ誕生(1742 死去)
1744/08/10 長女、アレクサンドリーヌ=ジャンヌ・デティオール誕生
1745/02/25 イチイの木の舞踏会(王太子結婚祝賀仮面舞踏会)でルイ15世と再会
1745       デティオールと別居、ルイ15世にポンパドゥール侯爵夫人の称号を譲り受ける(ブルジョワ階級では宮廷に入れない)
1745/09/14 公式愛妾と認定
1749頃     ルイ15世との間で妊娠と流産を繰り返す
1750頃     狩猟用の鹿を飼育する鹿猟園を王家専用娼館「鹿の苑(Parc-aux-Cerfs)」として開設
1752       ルイ15世のコンフィダン(相談役)にとりたてられ、侯爵から公爵へと昇格
1754/06/15 長女アレクサンドリーヌ逝去。(享年9歳)
1764/04/15 ヴェルサイユ宮殿にてポンパドゥール夫人逝去(享年42歳)

 
 彼女は全てに長けた才女であったがひとつだけ不得手なものあった訳で、「鹿の苑(娼館)」を管理せざる得なかった。フランスでは『ポンパドゥール』が彼女が開発した性技の代名詞になっているというのに、彼女は夜伽がおイヤwww
 そこには健康上の問題があったようだ。
2012/03/10 ポンパドゥール夫人の頭痛は、政策に影響を与えたか?URL
 
 愛と美貌と頭脳見た目全てにおいてパーフェクトな女性の肖像画はやっぱりパーフェクト。
 今回はそんな素敵な彼女をコレクターしてみた。
 
『ポンパドゥール夫人』(1755) 

モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール(Maurice Quentin de La Tour 1704–1788)
 
『ディアナに扮したポンパドゥール夫人』(1746)

ジャン=マルク・ナティエ(Jean-Marc Nattier 1685–1766)
イチイの木の舞踏会で彼女が扮したのは狩りの女神「ディアナ」。仮面舞踏会で彼女はハンティングをしてたんですね。
 
 
『ポンパドゥール候爵夫人の肖像画』
 
 
 
フランソワ・ブーシェ(François Boucher 1703-1770)
※ブーシェは彼女をいっぱい書いてるのよね、彼女も綺麗だけど、布地がもっと素敵。。。
 
 ついでに彼女(マリー=ルイーズ・オミュルフィ)を書いたのもブーシェ
 
『ソファーに横たわる裸婦』(1752)【URL
(黄金のオダリスク、ルイーズ・オマフィーの肖像

フランソワ・ブーシェ(François Boucher 1703-1770) 
※マリー=ルイーズ・オミュルフィがモデルになったブーシェの絵を見て、ルイ15世が「これ欲しい~」ってんでポンパドゥール夫人が「鹿の苑」に調達。その後、夫人に代わって公妾になろうとしたが、赤子の手をねじるように「ハイハイ」って使い捨て(夫人に良縁を紹介され、年金支給を受け追い出される)にされる。でも、あんまりこの絵では魅力的に感じないんだけどな。。。。
 
『ポンパドゥール夫人肖像画』 (1760)

ロザルバ・カリエラ(Carle Vanloo 1705-1765)
 
  
最後にまたブーシェ
『ポンパドゥール候爵夫人の肖像画』(1750)

フランソワ・ブーシェ(François Boucher 1703-1770)
 
 彼女は公妾となった時「ついに私の時代が来た」と散財の限りを尽くし、死ぬ直前には「我が亡き後に洪水よ来たれ」と言い放ち、その責任を後世に負わせた。断頭台でなく戯れ歌程度ですんだのは、短命が幸いしたのかもしれない。